20150419

個人的なひとりごと 「20世紀工業有機性は何を照らすのか?」


私達の日常生活に見慣れたアーム型のデスクライトですが、普段使いの1個という既成概念に固執化された使い方から、単純に複数を同時化させるだけで、
まるで、「奇妙な生き物のような擬態的なフォルムに進化」するようです。

20世紀の産業革命以降 「消費財」という 大量に作っては廃棄する という新たな概念とスタイルを文明に組み入れた人類は、量産化させることに、今度は、自分を合わせ続ける という、、、
つまり 簡単に言えば
新しいスマホが出れば、その使い方に自分を合わせることが求められ、流行りの音楽も同じ曲を聞き続けることは、流行に遅れを取る自分を鏡で見るような心境になり、一瞬の価値しかもたない言葉をツイッターに、ラインに書き込み、瞬時に自分が消えていくことに慣れ

しかし、不思議なことに
自己の存在の希薄さに対して時代は、大いに寛容であり肯定的なようです。
19世紀以前、日常的な生活品のほとんどは貴重さを持ち、「使い捨て」という概念さえ存在していませんでした。もう、1冊の本を大事に-大事に、1ページ-1ページ、寝る前に読む楽しみも、本を抱いて寝る老若男女も絶滅したようです。

擬態化した人類
産業革命で工業製品と自分の肉体をくっつけ、コンピュータの登場で脳の機能を拡大し、情報革命で人格を拡張し、インターネットから自分を輸入することが日常になり、イタリア人外科医は臓器ではなく、頭部を移植する準備が現在進んでいるようです。

なのに時代は ナチュラル を求めている
今現在、私の仕事で圧倒的にデザインのコンセプトとして求められているのは、「ナチュラル」という志向です。街には「ゆるカフェ」が溢れ、ナチュラル志向が溢れ、溢れかえっています。
それは、全くナチュラルじゃないのに?。 思考・行動そのものが、そもそもナチュラルではないのに?

ナイチャーや、アースなら許容できる生命体の本質であるのならば、もう一度、なぜ今、時代はナチュラルを枯渇しているのかを議論しませんか?
余談ですが、昔「超地球的生命体」という思想がありましたね。

デザイナー 冨山和彦